濱田友緒(はまだともお)さんインタビュー

Fujiya Sakuma

日本(にほん)民藝品(みんげいひん)陶器(とうき)など)の価値(かち)()げた人間国宝(にんげんこくほう)濱田庄司氏(はまだしょうじし)(まご)濱田友緒(はまだともお)さん。
濱田友緒(はまだともお)さんは、現在(げんざい)でも陶器作(とうきづく)りをオートメーション()することなく、100年前(ねんまえ)手作(てづ)りの工法(こうほう)(もち)いて陶器(とうき)制作(せいさく)している。(いま)では東京(とうきょう)のデザイン(けい)のショップにも濱田(はまだ)さん制作(せいさく)陶器(とうき)販売(はんばい)されている。その濱田友緒(はまだともお)さんに「益子焼(ましこやき)魅力(みりょく)」について(かた)ってもらった。

100年前(ねんまえ)のハンドメイドの工法(こうほう)(つく)益子焼(ましこやき)
田舎(いなか)っぽく(あたた)かみのある陶器(とうき)(おお)くの人々(ひとびと)魅了(みりょう)される。

Fujiya Sakuma
Fujiya Sakuma

―――濱田(はまだ)さんの陶器(とうき)は、(いま)益子(ましこ)小売店(こうりてん)はもちろんですが、(わか)(ひと)利用(りよう)するデザイン(せい)(たか)いショップでも販売(はんばい)されているみたいですね。益子焼(ましこやき)制作(せいさく)する(うえ)(なに)かこだわりみたいなものはありますか?

濱田(はまだ) (なに)から(なに)まで手仕事(てしごと)でやっているということですかね。100年前(ねんまえ)だったら()たり(まえ)のことだったんですが、「()りロクロ」や「(のぼ)(がま)」を使(つか)って制作(せいさく)(おこな)っています。()りロクロは、電動(でんどう)ではなく(あし)()って(まわ)すロクロです。(のぼ)(がま)は、(さか)斜面(しゃめん)に5つの部屋(へや)(なら)んでいて、(した)部屋(へや)()いていると(ほのお)(ねつ)斜面(しゃめん)沿()って()がって()き、(つぎ)部屋(へや)はその予熱(よねつ)使(つか)って()けていくという。(いま)(らく)手法(しゅほう)もいっぱいありますから、(らく)(ほう)(なが)れようと(おも)えばどんどん(なが)れていきます。スタイルは古風(こふう)ですけど、(まも)価値(かち)があるものは(まも)っていこうと。

Fujiya Sakuma
Fujiya Sakuma

―――()りロクロは、非常(ひじょう)(めずら)しいと(おも)いますが、電動(でんどう)ロクロで(つく)ったモノと完成品(かんせいひん)(ちが)いが()てくるんですか?

濱田(はまだ) 電動(でんどう)ロクロは、(あし)手元(てもと)にあるレバーで操作(そうさ)するんですが、回転(かいてん)一定(いってい)なんですが、()りロクロは、回転(かいてん)自然(しぜん)(かん)じなんです。()りロクロは、()ってロクロが惰性(だせい)(うご)いたり、()って加速(かそく)したり、緩急(かんきゅう)自在(じざい)なんです。自然(しぜん)なスピードなので、作品(さくにん)(やわ)らかみを()びます。()りロクロに(あこが)れている若者(わかもの)もいて、電動(でんどう)ロクロで(まな)んだけど、(あらた)めて()りロクロで(まな)(なお)(ひと)もいます。ただ()りロクロを自分(じぶん)(ところ)用意(ようい)するのは大変(たいへん)なんです。(だい)はケヤキで立派(りっぱ)なものだし、(ゆか)はコンクリートで(かた)めなければいけないし。なので現実的(げんじつてき)には電動(でんどう)ロクロになってしまうと(おも)います。

Fujiya Sakuma

―――なるほど、そうなるとここで()りロクロで制作(せいさく)された陶器(とうき)は、さらに貴重(きちょう)なものだということが()かりました。益子焼(ましこやき)日本(にほん)でも有名(ゆうめい)ですが、どのようにして有名(ゆうめい)になったんですか?

濱田(はまだ) 益子焼(ましこやき)江戸時代(えどじだい)後期(こうき)からと()われてますが、本格的(ほんかくてき)(ひろ)まりだしたのは、明治時代(めいじじだい)(はい)ってからです。最初(さいしょ)は、滋賀県(しがけん)信楽焼(しがらきやき)愛知県(あいちけん)瀬戸焼(せとやき)など()れているものを(つく)っていました。これは、(いま)(むかし)もそうなんですけど、益子(ましこ)では()(せん)(つく)っているんです。
ただ、時代(じだい)(すす)むにつれ、水甕(すいびん)水道(すいどう)()わり、味噌(みそ)は、大豆(だいず)をすり(ばち)()って(つく)らずに、完成(かんせい)した味噌(みそ)()られている。土瓶(どびん)はやかんに()わりました。つまり陶器(とうき)使(つか)必要性(ひつようせい)がなくなったんです。その結果(けっか)日本中(にほんじゅう)陶器(とうき)()れにくくなったんです。
そんな状況(じょうきょう)(なか)、1930年頃(ねんごろ)濱田庄司(はまだしょうじ)益子(ましこ)にやってくるんです。庄司(しょうじ)は、自由(じゆう)発想(はっそう)陶器(とうき)(つく)り、芸術性(げいじゅつせい)()びた作品(さくひん)(つく)りました。「陶器(とうき)()れなくて(こま)った」と()ってる(とき)に、「濱田(はまだ)作品(さくひん)はいいらしいぞ」って。それで陶芸家(とうげいか)庄司(しょうじ)作風(さくふう)をまねて(なが)()けをしたり花瓶(かびん)(つく)ったりしたんです。窯元(かまもと)個人名(こじんめい)作家活動(さっかかつどう)したり。

Fujiya Sakuma

―――濱田庄司先生(はまだしょうじせんせい)をきっかけに陶器(とうき)への価値観(かちかん)()わったんですね。この濱田庄司先生(はまだしょうじせんせい)は、民藝運動(みんげいうんどう)(おこな)った(かた)でも有名(ゆうめい)です。

濱田(はまだ) そうです、民藝運動(みんげいうんどう)は、陶器(とうき)だけでなく手作(てづく)りで(つく)民藝品(みんげいひん)価値(かち)をあげました。(すこ)民藝運動(みんげいうんどう)について説明(せつめい)しますと、日本(にほん)高度成長期(こうどせいちょうき)(1955(ねん)~1973(ねん))で陶器(とうき)などが量産化(りょうさんか)され(はじ)めたことで、各地(かくち)工場(こうじょう)ができ(はじ)めました。その工場(こうじょう)職人達(しょくにんたち)がどんどん(やと)われ(はじ)め、手仕事(てしごと)をする職人(しょくにん)がいなくなり、このままでは地域(ちいき)ならではの手仕事(てしごと)()えてしまうという状況(じょうきょう)になりました。第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)(1939(ねん)~1945(ねん)(あた)りから、アメリカンナイズされ(はじ)め、田舎(いなか)地味(じみ)(つく)っている手仕事(てしごと)()ずかしいものだと(おも)われていたんです。そこで濱田庄司(はまだしょうじ)柳宗悦(やなぎむねよし)河井寛次郎(かわいかんじろう)が、(むかし)ながらの手仕事(てしごと)は「素晴(すば)らしく価値(かち)があるものだ。自信(じしん)をもって(つく)りなさい。多方(たほう)私達(わたしたち)紹介(しょうかい)するから」ということを全国(ぜんこく)(まわ)って、()いた運動(うんどう)です。その活動(かつどう)によって、(いま)手仕事(てしごと)民藝品(みんげいひん)価値(かち)()つことができ、(すく)われました。(いま)日本(にほん)のハンドメイドの品々(しなじな)世界的(せかいてき)にも注目(ちゅうもく)(あつ)めています。この活躍(かつやく)は、民藝運動(みんげいうんどう)によって民藝品(みんげいひん)(ひかり)をあててくれたことが(おお)きな要因(よういん)になっています。

Fujiya Sakuma

―――濱田庄司先生(はまだしょうじせんせい)らが(おこな)った民藝運動(みんげいうんどう)は、陶器(とうき)にとっても(おお)きな功績(こうせき)になっているんですね。それにしても(べつ)土地(とち)からやってきて、最初(さいしょ)理解(りかい)できないものを(つく)(はじ)めた濱田庄司先生(はまだしょうじせんせい)益子(ましこ)(まち)()()れましたね。

濱田(はまだ) 益子(ましこ)伝統(でんとう)やルールが(あさ)かった(ぶん)外部(がいぶ)(ひと)(はい)りやすかったんだったと(おも)います。今活躍(いまかつやく)している陶芸家(とうげいか)の8(わり)くらいは、外部(がいぶ)からやってきた2(せい)、3(せい)だと(おも)います。素朴(そぼく)風土(ふうど)ですから、(つく)っている(もの)気取(きど)ったものでなく、田舎(いなか)()さがあります。そういう田舎(いなか)素朴(そぼく)(かん)じに()かれる(ひと)(あつ)まってきているんだと(おも)いますよ。益子(ましこ)修行(しゅぎょう)した(ひと)でもモダンな陶器(とうき)()きな(ひと)は、(ちか)くの笠間焼(かさまやき)のエリアで活躍(かつやく)してますし、笠間(かさま)から益子(ましこ)(うつ)()んだ(ひと)は、(やま)(つち)()きみたいな(ひと)(おお)い。だから益子(ましこ)陶器(とうき)がもっている(あたた)かみはそういう(ひと)雰囲気(ふんいき)(あふ)れでているんじゃないでしょうか。

―――最後(さいご)今後(こんご)益子焼(ましこやき)展望(てんぼう)は?

濱田(はまだ) やっぱり理想的(りそうてき)には、陶芸家(とうげいか)販売店(はんばいてん)(かず)()ってもらいたくはないです。陶芸家(とうげいか)よりも販売店(はんばいてん)心配(しんぱい)です。益子(ましこ)陶芸品店(とうげいひんてん)のメイン(とお)り”城内坂(じょうないざか)"にある販売店(はんばいてん)さんでは、後継(あとつ)ぎが見当(みあ)たらず高齢化(こうれいか)している(みせ)()えてきているので、今後(こんご)心配(しんぱい)です。あとは、ハンドメイドの湯呑(ゆのみ)が3500円位(えんくらい)()れるようになった(ほう)(つく)()生活(せいかつ)(らく)になると(おも)います。(いま)は、2500(えん)販売(はんばい)していますが、その金額(きんがく)だと生活(せいかつ)もギリギリですので。海外(かいがい)ではハンドメイドの()(もの)手仕事(てしごと)品物(しなもの)(たい)しての評価(ひょうか)(たか)く、日本(にほん)の3(ばい)から4(ばい)価格(かかく)販売(はんばい)されています。なので益子(ましこ)日本(にほん)旅行(りょこう)()たついでに陶芸品(とうげいひん)()ってもらった(ほう)が、ハンドメインドの(もの)(やす)()えると(おも)いますよ((わらい))。手仕事(てしごと)、ハンドメイドの品質(ひんしつ)維持(いじ)向上(こうじょう)目指(めざ)すことと、それに(たい)するブランドの価値(かち)(たか)めていくことが大切(たいせつ)です。

Fujiya Sakuma

濱田友緒(はまだともお)  略歴(りゃくれき)

1967(ねん) 濱田晋作(はまだしんさく)()濱田庄司(はまだしょうじ)(まご)として益子町(ましこまち)()まれる。
     幼少期(ようしょうき)から濱田窯(はまだがま)庄司(しょうじ)晋作(しんさく)工房(こうぼう)にて(つち)(した)しむ。
1989(ねん) 多摩美術大学彫刻科(たまびじゅつだいがくちょうこくか)卒業(そつぎょう)
1991(ねん) 同大学院美術研究家彫刻(どうだいがくいんびじゅつけんきゅうかちょうこく)修了(しゅうりょう)
1995(ねん) 益子町(ましこまち)使節団(しせつだん)として渡英(とえい)、セントアイヴス、ダーティントン、ロンドンなどを訪問(ほうもん)
     各地(かくち)歓迎(かんげい)()け、庄司(しょうじ)とリーチ没後(ぼつご)途絶(とだ)えていたイギリスとの交流(こうりゅう)再開(さいかい)する。
1998(ねん) イギリス、ディッチリング美術館(びじゅつかん)にて「POTTERY EAST&WEST」(てん)招待出品(しょうたいしゅっぴん)
     陶芸実演(とうげいじつえん)(おこな)う。
2001(ねん) 日本橋三越(にほんばしみつこし)(だい)1(かい)個展開催(こてんかいさい)以降隔年開催(いこうかくねんかいさい)
2004(ねん) 益子町(ましこまち)調査団(ちょうさだん)として沖縄訪問(おきなわほうもん)壺屋(つぼや)読谷村(よみたんそん)などの陶芸工房(とうげいこうぼう)視察(しさつ)
2005(ねん) アサヒビール大山崎山荘美術館(おおやまざきさんそうびじゅつかん)益子濱田窯三代(ましこはまだがまさんだい) 庄司(しょうじ)晋作(しんさく)友緒展(ともおてん)開催(かいさい)
2007(ねん) 益子陶芸美術館(ましことうげいびじゅつかん)濱田(はまだ)系譜(けいふ)(てん)出品(しゅっぴん)
    「濱田窯三代(はまだがまさんだい) 庄司(しょうじ)晋作(しんさく)友緒(ともお) 陶芸(とうげい)(みち)(てん)日本橋三越(にほんばしみつこし)三越仙台店(みつこすせんだいてん)名古屋栄三越(なごやさかえみつこし)にて
     順次開催(じゅんじかいさい)
2008(ねん) セントアイヴスのリーチポタリー復興記念式典(ふっこうきねんしきてん)出席(しゅっせき)。バーナード・リーチの(まご)のジョン・リーチ()
     テープカットを(おこな)う。
     濱田窯(はまだがま) 三代目代表(さんだいめだいひょう)就任(しゅうにん)
2009(ねん) リーチポタリー1周年記念(しゅうねんきねん)濱田友緒展(はまだともおてん)」のため、リーチポタリーで滞在制作(たいざいせいさく)する。
     陶芸実演(とうげいじつえん)講演(こうえん)(おこな)う。
     パッカーギャラリー(ボストン)にて濱田窯三代展(はまだがまさんだいてん)開催(かいさい)以降隔年開催(いこうかくねんかいさい))。
     ハーバード大学(だいがく)などで講演(こうえん)陶芸実演(とうげいじつえん)(おこな)う。
2011(ねん) 「濱田窯開窯(はまだがまかいよう)80年記念(ねんきねん) 濱田家三代展(はまだけさんだいてん)」を大阪三越(おおさかみつこし)開催(かいさい)
     塩釉発祥(えんゆうはっしょう)()ドイツのヴェスターヴァルド地方(ちほう)訪問(ほうもん)同地(どうち)ヘーアグレンツハウゼン地区(ちく)
     コブレンツ大学(だいがく)にて開催(かいさい)塩釉焼成(えんゆうしょうせい)参加(さんか)
     ヴェスターヴァルド陶芸美術館(とうげいびじゅつかん)にて講演(こうえん)(おこな)う。
2012(ねん) 濱田庄司(はまだしょうじ)母校(ぼこう)東工大(とうこうだい)での「東工大(とうこうだい)益子焼(ましこやき)(てん)出品(しゅっぴん)
     東京(とうきょう)アメリカンクラブ「マシコ・ポターズ・リカバリー(てん)」に出品(しゅっぴん)
     公益財団法人(こうえきざいだんほうじん) 濱田庄司記念益子参考館(はまだしょうじきねんましこさんこうかん)館長(かんちょう)就任(しゅうにん)し、震災(しんさい)被災(ひさい)した益子参考館(ましこさんこうかん)
     濱田窯(はまだがま)再建(さいけん)尽力(じんりょく)する。
     益子町(ましこまち)とセントアイヴスの友好都市締結(ゆうこうとしていけつ)のため、益子町(ましこまち)使節団(しせつだん)として渡英(とえい)
     リーチポタリー、ロンドンなどを訪問(ほうもん)する。
2013(ねん)  濱田庄司記念益子参考館(はまだしょうじきねんましこさんこうかん)(おお)くの寄付金(きふきん)をもとに再建(さいけん)し「益子参考館再建式典(ましこさんこうかんさいけんしきてん)」を館内(かんない)開催(かいさい)
     日本橋三越(にほんばしみつこし)からも助力(じょりょく)(いただ)く。
     リーチポタリー「(だい)2(かい) 濱田友緒展(はまだともおてん)開催(かいさい)。セントアイヴス・スクールにて
     陶芸実演と講演を行う。
2014(ねん) ロエベの招待(しょうたい)により、マドリッドとパリの本社(ほんしゃ)工場(こうじょう)、ショップなどを視察(しさつ)
     ロエベのデザイナーのジョナサン・アンダーソン()からロエベイメージの花瓶制作(かびんせいさく)依頼(いらい)()ける。
     表参道(おもてさんどう)のCasa LOEWE Omotesandoにロエベイメージの花瓶(かびん)
     濱田窯三代(はまだがまさんだい)花瓶(かびん)を11点設置(てんせっち)
     益子陶芸美術館(ましことうげいびじゅつかん)展開(てんかい)するチカラ」(てん)出品(しゅっぴん)
2015(ねん) 震災復興(しんさいふっこう)記念(きねん)する「濱田庄司(はまだしょうじ)(のぼ)(がま)復活(ふっかつ)プロジェクト」を開催(かいさい)。プロジェクトの会長(かいちょう)として
     益子参考館内(ましこさんこうかんない)震災(しんさい)崩壊(ほうかい)して再建(さいけん)()たした濱田庄司(はまだしょうじ)大釜(おおがま)益子(ましこ)陶芸家(とうげいか)など
     (やく)100(めい)焼成(しょうせい)し、好評(こうひょう)(はく)す。
2017(ねん) 益子町(ましこまち)とセントアイヴスの友好都市(ゆうこうとし)5周年記念式典(しゅうねんきねんしきてん)をリーチポタリーで開催(かいさい)するため
     益子町(ましこまち)使節団(しせつだん)として渡英(とえい)。ロンドンの在英国日本大使館(ざいえいこくにほんこくたいしかん)講演(こうえん)(おこな)う。
2018(ねん) (だい)2(かい)濱田庄司(はまだしょうじ)(のぼ)(がま)復活(ふっかつ)プロジェクト」を開催(かいさい)益子(ましこ)笠間(かさま)陶芸家(とうげいか)87(めい)益子参考館(ましこさんこうかん)
     (のぼ)(がま)焼成(しょうせい)する。
    世田谷美術館(せたがやびじゅつかん)濱田窯(はまだがま)系譜(けいふ) 濱田晋作(はまだしんさく)濱田友緒(はまだともお)(てん)開催(かいさい)
2019(ねん) MASHIKO Productの代表(だいひょう)就任(しゅうにん)深澤直人氏(ふかさわなおとし)のデザイン監修(かんしゅう)による益子焼(ましこやき)ブランド
     「BOTE&SUTTO」の制作(せいさく)(わずさ)わる。ブランド(めい)BOTE&SUTTOを命名(めいめい)する。
    ジョン・ラスキン生誕(せいたん)200(ねん)記念講演(きねんこうえん)を、スコットランドの湖水地方(こすいちほう)のラスキン(てい)
     ブラントウッド・ハウスに(まね)かれ(おこな)う。
2021(ねん) リーチポタリー創立(そうりつ)100(ねん)記念(きねん)する「益子(ましこ)×セントアイヴス100年祭(ねんさい)」を益子町(まちこまち)開催(かいさい)
     実行委員長(じっこういいんちょう)(つと)める。
    日本橋三越(にほんばしみつこし)にて「濱田窯(はまだがま)90(ねん) 濱田窯三代(はまだがまさんだい)とバーナード・リーチ(てん)」を開催(かいさい)する。

日本各地(にほんかくち)世界各国(せかいかくこく)美術館(びじゅつかん)大学(だいがく)陶芸施設(とうげいしせつ)、ギャラリー、大使館(たいしかん)百貨店(ひゃっかてん)などで、展覧会(てんらんかい)講演会(こうえんかい)陶芸(とうげい)ワークショップを開催(かいさい)する。

(おも)作品(さくひん)収蔵先(しゅうぞうさき)

益子陶芸美術館(ましことうげいびじゅつかん)栃木県立美術館(とちぎけんりつびじゅつかん)世田谷美術館(せやがやびじゅつかん)、ロエベ、アサヒビール大山崎山荘美術館(おおやまざきさんそうびじゅつかん)、ディッチリング美術館(びじゅつかん)、ランズウッド美術館(びじゅつかん)、ボストン美術館(びじゅつかん)、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(びじゅつかん)、ニューオーリンズ美術館(びじゅつかん)、サンフランシスコ・アジア美術館(びじゅつかん)、ニューハンプシャー芸術大学(げいじゅつだいがく)、ヴェスターヴァルド陶芸美術館(とうげいびじゅつかん)(かぜ)(みどり)認定(にんてい)こども(えん)益子町役場(ましこまちやくば)真岡市役所(もおかしやくしょ)真岡高校(もおかこうこう)小山高校(おやまこうこう)佐野東石美術館(さのとうせきびじゅつかん)、セントアイヴス・スクールなど。

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