太田幸博さんインタビュー
陶芸を作り続け約36年。一流の陶芸家である一方でブルースのギター奏者でもある太田幸博さん。『鳴神』というバンドでCDを3枚リリースしている。綺麗な形の陶器ではなく、力強い生命力感溢れる器が魅力的。まるで演奏するようなリズムでロクロを回し、陶器を作り上げていく。益子の山間にある太田さんの窯では、毎日のように「陶器作り」というライブが繰り広げられている。
―――陶芸家になった経緯を教えて頂けますか?
太田 若い頃は、ミュージシャンになりたくて、「東京に行けば、ミュージシャンになれるだろう」って甘い考えがありまして(笑)。父親は国鉄職員だったのですが、絵が好きでよく絵を描いていました。その影響もあって、絵をruby>描くのは好きで、「東京の美術大学」に進学しようと思っていました。そしたら父親から「絵なんかじゃ生活ができない。経済大学に通いなさい。経済大学に進学するなら東京に行ってもいい」と言われて、東京経済大学に通うことにしました。ある日、知り合いに誘われて日大の地下のスタジオに行ったら、プロ志向の学生が集まって演奏をしていて、それを見て驚きました。東京はやっぱりレベルが違うなと。レベルの高い人たちの演奏を見て、自分には才能がないと、一旦は音楽の道は諦めたんです。大学卒業後は、とりあえず就職もしなければいけないし、知り合いの紹介でとある会社に入ったんですが、いろいろあって1日で辞めました(笑)。それで「どうしようかな」と思い悩んでいたら、知り合いから声をかけられて、渋谷のジーパン屋の店長になりました。当時、アメリカの文化や音楽が好きだったというのもあったので。この時、イラストレーターとかカメラマンが集っている高円寺にブルースを流すお店に通ってて。その時、思ったんですね、「みんな、手に職がある。自分はジーパン屋の店長で何かできるわけではない。これはまずい、どうにかしないと」と。実はここで、妻とも出会うんです。この時はまだ籍は入れてなかったんですけど、ある日、妻がたまたま益子の陶芸家の友達の所に行くことになったんです。その時にそのお友達の師匠・成井恒雄さんに会うことができて、第一印象で衝撃を受けました。ズボンに荒縄をベルトにしてて、「うわーかっこいい」って思ったんです。それで焼き物の面白い話をいっぱいしてくれるんです。僕が生まれ育った岩手県は、磁器が主流なので、陶器はなかったんです。それで非常に焼き物に興味を持ちました。それと、もう1人あった陶芸家の人がステーキに赤ワイン飲んでて、「陶芸家って儲かるのかも?」って思ったというのも陶芸家になったきっけかもしれません。
――――益子に移住したのは?
太田 益子に移住したのは26歳の時です。陶芸家になろうと思って、東京で陶芸教室なんかに通っていたら、知り合った益子の陶芸家さんに「陶芸なんて誰でもできる。東京で勉強なんて無駄だから益子に来なさい」って言って頂いて。益子で陶芸家になる覚悟を決め、そのタイミングで妻とも正式に籍を入れ、益子に移住してきました。常連だったブルースのお店のマスターにトラックを借りてもらって、荷物詰んで。
それで移住したものの焼き物のことは何もしらないから、まず成井恒雄さんの所に挨拶にいったら、「とりあえず兄貴の焼き物工場に行って、経験してきなさい」って、当時、成井恒雄さんのお兄さんが工場をやっていたので、そこに勤めながら、夜は成井さんの所に習いに行って、そんな生活を2年くらい続けていたら、成井さんの所の先輩に「昼間、来ないと上手くならない」って言われて、「じゃあ、昼間きます!」ってお願いし、1年間勉強させてもらいました。それで当時は3年経ったら独立するというのが、普通だったので、窯が持てる土地を探してたんです。今も作品作りをしているこの土地を紹介されたんですけど、お金がなくて…。銀行からお金を借りようと思ったら、保証人がいなかったもんで、借りることも厳しかったんです。そしたら成井恒雄さんが「俺が保証人になってやる」って。お金を借りる時の書類に関係性を書く欄があるんですけど、僕が「師匠ですか?」って聞いたら、「友達って書け」って。すごくユニークな人でした(笑)。
―――陶芸家として独立してすぐ仕事はあったんですか?
太田 最初は売るのが大変でした。陶芸村に行って、自分の陶器を見せたら「この人は200円だから180円だな」とか言われて。陶器を販売していた共販センターに行って、うろうろしていたら、ある方が買ってくれたり。それと年に2回開催される陶器市が大きな売り上げになりました。1980年~90年代は、首都圏で陶器を扱うお店も多くて、たくさん売れた時代です。
―――日本の焼き物の魅力はどういった所にあると思いますか?
太田 若い頃はジーパン屋さんで働いていたこともあって、アメリカの古着とか、音楽もアメリカのものが好きだったので、Made in USAにすごく影響を受けました。ただ焼き物を始めたら日本の焼き物はすごく深みがあることに気づきました。古くは焼き物先進国と言えば中国でしたが、今は日本が先進じゃないでしょうか。日本の焼き物は日常的な暮らしで使われる中に美を感じることができます。成井恒雄さんに言われたのが、「茶碗は誰でも作れるけど、いい茶碗を作るのは難しい」と。成井恒雄さんが作る茶碗は15cm足らずの物ですが、茶碗の内側に無限の世界があるんですよ。自分もそういう茶碗ができないかなと日々、奮闘しています。36年経ちましたが、なかなか難しいです。
一般の焼き物の技術は、形を指で作ってコテでなめすんです。成井恒雄さんから教わったのは、ぐっと中心の土を押し込むと土が動いて形ができてくると。形を作るんじゃなくて、土を動かすんだと。長年やっているからってできるもんではありません。その時の自分の考えや精神状態とかいろいろ影響もします。無駄な土を残さずに一気にひくのが目標なんですけど、そう上手くいきません。僕は電動のロクロではなく、蹴ロクロでやっているのですが、蹴ロクロじゃないとできないんじゃないかな。自分のタイミングがあるんで。自分が音楽やってるから言うわけじゃないんですけど、ある意味、バンドのセッションに似ているかもしれない。ジャズ、ブルースなどの黒人音楽って、リズムのポケットというのがあるのを知ってますか?バックビートといって、2拍目と4拍目にあるリズムなんですけど、そのリズムが合えば、終わりがなくいつまでも演奏し続けられるって言われているんです。僕はロクロをひくとき、そのリズムを感じられると、自分の納得いく作品に近づけるような気がします。
―――最後に益子焼の魅力は?
太田 今の時代、益子焼の定義って非常に難しい。備前焼みたいにはっきりした定義がないんです。益子焼はある意味、自由競技みたいな所がありますから。誰でも、どんな作品でも受け入れるのが益子のよさでもあります。ただ1つ言えるのは、コピーは駄目です。自分オリジナルの作品でないと。それと日本の長い伝統があるのだから、日本伝統から発想をもらって、作った方がいいんじゃないかと。今、ヨーロッパの食器が流行っているからって、安易にそれをモチーフに取り入れるというのはどうかと思う。日本には風土に根ざした素晴らしい文化があるじゃないですか。その日本文化をこの先も大切する上でも陶器作りのモチーフは日本の風土から探すのが望ましいと思います。
太田幸博 略歴
1955年 岩手県盛岡市生まれ
1981年 栃木県益子町在住・成井恒雄氏に師事
1985年 栃木県益子町・一の沢に登り窯を築き独立
1989年 第61回新構造展入選
1990年 同展にて入賞
淡交社・明日への茶道美術公募展入選
1992年 92淡交ビンナーレ茶道美術公募展入選
1994年 94淡交ビンナーレ茶道美術公募展にて鵬雲斎千宗室家元奨励賞受賞
2000年 第7回岩手茶道美術公芸展にて審査員特別賞受賞
陶芸家の傍ら、ミュージシャン(ブルースギター奏者)としても活躍。
CDも3枚リリース。
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